Nov
27
Filed Under (抗議) by tom1944 on 27-11-2009

名護市議会、松沢知事へ意見書「発言の白紙撤回を」

松沢知事への意見書案を可決する名護市議会=26日午前0時50分

名護市議会(島袋権勇議長)は26日の市議会臨時会で、米軍普天間飛行場移設問題に関し、松沢成文神奈川県知事が訪米先で「国外への移設は不可能。今の辺野古しか解決策は見えない」と述べたことに対し、「発言の白紙撤回」と「名護市民・県民への謝罪」を求める意見書を全会一致で可決した。あて先は松沢知事。

 意見書では「衆院選の結果、県議会の辺野古移設反対決議、世論調査でも県内移設に反対する県民の民意は明らかになっている」指摘。「松沢知事の発言は基地重圧に苦しむ県民世論に対する挑戦。まさに沖縄県民を無視した独りよがりの暴論」と批判した。

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お手柄高校生 ひったくり警官取り押さえ、

今の日本、どこかおかしい、犯罪取締りを行なう筈の「警察官」が犯罪者に早代わり、今の公務員は犯罪集団に変貌したのか?国民はどこを頼り信じれば良いのか、政府も政治家も官僚のロボットと化し、国民の事より利権争い、官僚が政治家を操るキチガイ国家になった日本。

岡山中央署は4日、お年寄りの女性から財布をひったくったとして窃盗容疑で、愛媛県警巡査部長、野村尚史容疑者(29)(松山市北土居)を現行犯逮捕した。
逮捕容疑は4日午後7時50分ごろ、岡山市中区森下町で、歩いていた同市の無職女性(75)に後ろから歩いて近づき、胸に抱えた現金入りの財布をひったくった疑い。

同署によると、自転車で帰宅途中だった男子高校生2人が「どろぼう」という女性の悲鳴を聞いて野村容疑者を追い掛け、取り押さえた。

お年寄りの女性から財布をひったくったとして、現行犯逮捕された愛媛県警の巡査部長、野村尚史容疑者(29)を取り押さえた岡山市内の私立高校に通う高校生が5日、高校で報道陣の取材に応じ「世も末だと思った」と話した。
取り押さえたのは3年生と1年生の男子生徒。自転車で帰宅途中、女性の悲鳴を聞いて野村容疑者を追い掛け、自転車で挟み込むように取り押さえた。
生徒は「捕まえる側の警察官が捕まるなんて信じられない」とあきれた様子だった。

75歳の女性から財布をひったくったとして、4日に岡山県警に窃盗容疑で逮捕された愛媛県警松山南署刑事1課の巡査部長、野村尚史容疑者(29)は盗犯係の主任で、これまでに3年以上ひったくり事件などを担当していたことが分かった。
愛媛県警が5日未明の記者会見で明らかにした。

愛媛県警によると、野村容疑者は銀行のカードローン約250万円を抱えていたことも家族の話などから判明。
使途については調査中で、同県警は「事件との関連は分からない」としている。
野村容疑者は1日から連絡が付かず、2日から無断欠勤の状態。岡山にいた理由も不明という。

愛媛県警の平岡公明首席監察官は記者会見で「盗犯係の刑事がこのような事件を起こし、被害者や関係者の皆様に深くおわび申し上げます。
捜査を待って厳正に処分したい」と沈痛な面持ちで陳謝した。

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Apr
12
Filed Under (抗議) by tom1944 on 12-04-2009

政府がついた嘘と犯罪、沖縄返還密約

 政府は、いつまで国民にうそをつき、だまし続けるつもりなのだろうか。
 沖縄返還交渉の際に、日米が交わした財政負担に関する秘密文書、沖縄返還「密約」とも呼ばれている。

 本来、協定上も米国が負担すべき返還軍用地の原状回復費用400万ドルを
 日本側が肩代わりした事実を示す文書をはじめ、支払うべき根拠のない米施設の移設費用の負担など、
 国民の血税を不当に支出した「犯罪的行為」を裏付ける文書などだ。

 「密約」の存在は1972年の沖縄返還時に毎日新聞記者の西山太吉さんが情報を入手し、国会でも取り上げられた。
 しかし、当時、政府は密約の存在を否定。

 その後も、情報開示を求める市民の要請を拒み続けてきた。
 だが、そんな日本政府の対応とは裏腹に、密約を結んだ相手国である米国は
 
 1994年に大統領令で秘密指定を解除し、すでに当該文書を情報公開している。

 開示された文書の一部は沖縄県公文書館でも開示されている。

 もっと言えば、密約を結んだ当事者である元外務省高官の吉野文六氏が、
 2006年に自ら報道機関や研究者に事実を告白し、密約の存在も認めている。

 それでも、日本政府は当該文書の開示請求に「保有していない」「不存在」として拒み続けている。

 日本は、いまも国内に駐留する米軍の駐留経費を負担し、
 日米地位協定上も米軍が負担すべき経費を「思いやり予算」として肩代わりを続けている。

 普天間基地の名護市辺野古への移転、米海兵隊の一部のグアム移転など、
 米軍再編のための費用も負担することになっている。

 「この巨額の財政負担の源流は、沖縄返還交渉中に日米間で交わされた密約にある」との指摘もある。

 「国民にうそをつく政府は、憲法を否定、いつか滅びる」
 「国民が主権者であることを確認するために」市民や研究者、ジャーナリストらが
 「沖縄返還密約」の開示を国に求め、東京地裁に提訴した。

 「うそつきは泥棒の始まり」という。
 政府が「密約」を否定する理由は何か。
 よもや国民の血税を盗み、米国に貢いだ事実を隠ぺいし続けるためではないだろう。
 裁判は日本の民主主義の「実相」を問うものだ。
 政府は事実を開示し、きっちりと説明してほしい。

 官僚主導で進められた「沖縄返還密約」の裏に、更なる「密約」が有るのではと疑いたくなる。

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Feb
16
Filed Under (怒り, 抗議) by tom1944 on 16-02-2009

アジア歴訪の最初の訪問国に日本を選んだクリントン氏,協定への署名も含め、米軍再編が主要なテーマとなる見通し。
米軍再編を合意通り履行することを確認し、日米同盟の強化をアピール,日本側の財政支出が始まることを踏まえ、政府は今国会での承認を得て、早ければ四月にも協定の発効にこぎつけたい考えだがグアム移転と普天間飛行場移設、嘉手納より南の基地返還を「パッケージ」として推進することを盛り込む。
ヒラリー・クリントン米国務長官は17日、中曽根弘文外相と都内で会談し、「在沖米海兵隊のグアム移転に関する協定」に署名する。
協定にはグアム移転と「パッケージ」とされた普天間飛行場の辺野古移設も明記し、確実に実行する方針を再確認するが、県などが求める代替施設案の沖合移動は、修正の根拠となる「合理的な理由」について、引き続き日本側で議論される方向の様だ。

沖縄では、沖合移動を求める県や名護市、県外移設を求める県議会などが日米合意に反対しているが、政府が責任を持って調整するとの考えを表明している。
米軍普天間飛行場の県内移設も再確認することに関連して、専門家からは環境影響評価(アセスメント)や公有水面埋め立てに関する国内法より優先して代替基地建設が推進される可能性を指摘する声が上がっている。
基地建設協定の発効により、普天間代替施設建設に伴い実施中の環境アセスの有名無実化や、知事の埋め立て許認可権が事実上無効化される事態も想定される。
「環境法などでも、国際法と国内法のどちらが優位かという問題が常に出てくる。
条約(協定)と国内法とで明らかに矛盾するような場合では、政府の裁量に委ねられている部分として、軍事、外交が優先することになる」と国際法が優位性にたつ。
 米側の姿勢についても「法と条約が対等であれば、後からつくられたものが優位になるのが、米側の国際法上の理解と解釈だ」

環境破壊が基地建設で正当化されて推し進められるでしょう。
条約締結の裏側に隠されている、あるいは日米間の理解の上で合意しているものが何なのかを突き詰める必要がある、裏約束も検証すべきだ。
沖縄返還時の密約の再来に成る矢も知れない。

辺野古への普天間代替施設問題の裏に隠れた「基地建設」を深く突き詰め検証する必要も出てくる。
「嘉手納より南の基地返還を「パッケージ」として推進する」との項目に、基地が整理縮小されると勘違いしている人も多い。
辺野古へは、いずれ、浦添市の補給基地の辺野古への移転建設、那覇軍港の機能の辺野古移転など、日本国民の見えない処での「裏」で工作が成されており、現在中部一帯での米軍がらみの騒音被害、米兵犯罪も当然北部一帯へ移る事になる。
基地の集約化で数字上の沖縄県の米軍基地負担75%を見かけで減らすのが狙いであり、基地集約化で機能を強化するのが今回の条約締結であり、基地の負担は、益々増える事になるのは目に見えて明らかだ。
今回の条約締結の真の目的を見定める必要がある。

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Feb
16

新聞報道から

クリントン米国務長官と中曽根弘文外相が17日に署名する条約「在沖米海兵隊のグアム移転に係る協定」に関し、前文に米軍普天間飛行場移設の日米合意推進が盛り込まれるだけでなく、条約本文でも県内移設実現に向けた両政府の強い意志が表明されることが13日分かった。

条約本文にまで盛り込むことで、米軍再編ロードマップ(行程表)のより厳格な実施をアピールする形だ。
代替施設の名護市辺野古建設に反対する県民世論の封じ込めや、沖合移動を求める県、名護市の要求を事実上押さえ込む格好ともなりそうだ。
 協定は10条程度。条文では、代替施設の沖合移動を求める地元要望や基地負担軽減には触れない。
 政府は協定の内容について「あくまで日本の財政支出の負担について取り決めることが目的」と説明。
だが協定の精神をうたう前文にはグアム移転、普天間県内移設、嘉手納より南の基地返還を「パッケージ」として明記する。
 国会審議では、普天間飛行場の県外・国外移転を政策に掲げる民主党の対応が注目されている。
自民党内からはすでに「本国会の最大の対決法案」との声が上がり、今後、協定の内容をめぐって国会で激しい議論が交わされそうだ。

クリントン米国務長官と中曽根弘文外相が17日、普天間飛行場移設を日米合意通りに実施することを明記する「在沖海兵隊のグアム移転に係る協定」に署名するのを前に、琉球新報社は県選出・出身国会議員11人に緊急アンケートを行った。
自民党1人を含めた7人が協定締結に反対する考えを明らかにした。
賛成2人、保留2人。グアム移転で米軍が削減されることは歓迎する一方、同時進行する普天間の名護市辺野古沿岸部移設には賛成できないという議員の複雑な心境が浮かび上がった。
 院別での内訳は、衆院議員が賛成2、反対4、保留1。
 参院議員が反対3、保留1。
 自民党5人のうち、反対意思を明確に示したのは仲村正治衆院議員。
 グアム移転は歓迎しながらも、普天間移設、嘉手納より南の基地返還を条件とする「パッケージ」には「別々の計画に基づき実現すべきだ」と要求。
「普天間は県や名護市の要請通りに沖合移動を認めなければ、普天間の危険を名護市に移すようなもので断固反対だ」と、県の求める沖合移動に政府が応じるべきだと主張している。
 国会承認の議決では反対に回る考えを示した。
 嘉数知賢衆院議員(自民)もグアム移転は評価する一方、協定締結により代替施設の位置が日米合意通りに固定されることを懸念。
 議決での態度を保留した。
 野党からは「普天間は無条件返還すべきだ」「パッケージ論は県民への責任転嫁、県民の分断・対立を図るものだ」などと、県内移設やパッケージ論を批判する意見が相次いだ。
 次期総選挙での政権交代の可能性に触れ、「選挙の危機感から来る唐突な駆け込み協定だ」と指摘する声もあった。
 協定は署名後に国会承認の審議に入る。
 条約・協定の承認は憲法で衆院の優越が認められているため、衆院で議決されれば、参院の議決に関係なく30日後に自然承認される。

中曽根弘文外相は13日の閣議後会見で、クリントン米国務長官と17日午前に都内で会談した後、在沖米海兵隊のグアム移転に関する日米両政府の新たな協定書に署名することを正式に発表した。
クリントン長官は中曽根外相と共同記者会見した後、同日夕には麻生太郎首相とも会談する予定。

 協定は
(1)日米合意したロードマップ(在日米軍再編の工程)における関連事項の確認
(2)海兵隊移転に必要となる日本側による資金の拠出
(3)資金についての米国による適切な管理
(4)グアム移転事業に参加するすべてのものの平等な取り扱い―が柱となっている。

 従来の政治文書から条約と同レベルの協定に引き上げることで、普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設も含めた米軍再編を確実に実行させたい考え。
中曽根外相はクリントン長官との会談でも、米軍再編をロードマップ通り進める方針を再確認する構えだ。

政府は米軍再編に伴うグアムへの移転作業を、本格化で2009年度から日本の財政支出が始まる事を踏まえ、4月にも協定の発効にこぎつけたい様であるが、沖縄県や名護市の求める沖合移動を無視して、強力な法的拘束力を伴う、条約と同レベルの協定を締結仕様としている。
之は憲法98条の規定で「国家間の条約は国内法より優位」で辺野古の環境影響評価や公有水面埋立法よりも優先される為、言を濁しつつも、半ば強制的に基地建設を押し薦めて行くであろう。

日本政府の日米地位協定(安保)観は米国の言いなりの政策を実施するという事に変わりは無いでしょう。
また、民主党が条件付で有っても協定に賛成すれば、政権を交代しても自民党となんら変わらない。
沖縄の負担軽減とは一体何をさすのか? 現状は負担増であり、今回の「協定締結」は沖縄県民へ益々負担が増す「協定締結」であり、見過ごしては成らない。
沖縄県民の皆様も「協定締結」で負担増が従来以上になる覚悟をしなくては成らないでしょう。
之が、今の日本政府であり、アメリカへ国民を売り飛ばす政府と心せよ。

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Mar
23
Filed Under (抗議) by tom1944 on 23-03-2008

米兵の人権蹂躙に怒り、どしゃぶりの悪天候の中、米兵犯罪・事故に抗議する県民大会に県内外から参集した大勢の市民が北谷公園野球場前広場に集い地位協定の抜本改定を求める県民総決起大会が開催。

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 米兵によるあらゆる事件事故に抗議する県民大会が3月23日午後2時、北谷公園野球場前広場で始まった。
大会では基地被害により県民の人権は侵害され続けているとして、日米地位協定の抜本改正米軍による人権侵害根絶のための政府の実効ある行動米軍人の綱紀粛正と実効性ある再発防止策の提示米軍基地の整理縮小と海兵隊を含む米軍兵力の削減―を求める大会決議。

 大会は同時に宮古島市平良の宮古教育会館、石垣市民会館でも始まった。
米兵の事件事故に抗議する県民大会は1995年10月21日の少女乱暴事件に抗議する県民総決起大会、米兵わいせつ事件など相次ぐ事件事故に抗議する2000年7月の緊急県民総決起大会以来の県民総決起大会。
 2月10日の米兵女子中学生暴行事件発生後、飲酒運転や住居侵入、陸軍兵女性暴行事件など米兵絡みの事故が相次いだことから、県子ども会育成連絡協議会沖子連や県婦人連合会沖婦連など社会教育団体等6団体が幹事団体となり、実行委形式で大会準備を進めてきた。
3月23日正午現在、89団体が賛同しました。

 基地被害により県民の人権が脅かされ続けている現状を見れば、日米地位協定の抜本改正を行うことが、私達県民の人権を守ることに繋がる。
1995年の県民大会で約束した基地の整理縮小は一向に進まず、依然として広大な米軍基地の重圧に苦しめられているなどとして、具体的な基地の整理縮小を強く求めた。
しかし、自民党県連と仲井真弘多知事は早々に大会不参加を決めた。
沖縄県民の先頭に立って共に戦わず、県民を見捨てて、自民党政府とアメリカに協力する姿勢「許せない行為」である。
 
大会決議

 米兵によるあらゆる事件事故に抗議する決議
 
 私たちに平和な沖縄を返してください。
1995年以降も繰り返される米軍の事件事故に抗議し、日米両政府に訴えた県民大会から13年、
その時約束された再発防止や綱紀粛正はむなしく、米軍犯罪はやむことを知らない。
 戦闘機、ヘリコプターなどの墜落事故、殺人的な爆音、環境破壊などで沖縄県民は被害を受け続けている。
婦女子に対する性暴力という凶悪犯罪がいまだ後を絶たない。
 米軍は今回の事件後、夜間外出禁止などの反省期間を置いた筈だが、事件後も飲酒運転、民間住居への不法侵入など事件は立て続けに起っている。
日米両政府の言う、地位協定の運用改善ではすまされない実態状況が明らかになっている。
 基地被害により県民の人権が侵害され続けている現状をみれば、日米地位協定の抜本改正を行うことが、沖縄県民や日本国民の人権を守ることにつながる。
13年前に約束した基地の整理縮小は一向に進まず、依然として広大な米軍基地の重圧に苦しめられているし、新たな基地を押し付けて来ている。
沖縄県民はあらためて、海兵隊を含む米軍兵力の削減など具体的な基地の整理縮小を強く求めていかなければならない。
 何ら変わらぬ現状に県民の我慢の限界はすでに超えている。
 日米両政府は、沖縄県民の訴えを、怒りを真摯に受け止め、以下の事項を確実に進めるよう、強く要求する。

   記

一、米軍優先である日米地位協定を抜本改正すること

一、米軍による県民の人権侵害を根絶するため政府はその責任を明確にし、実効ある行動をおこすこと

一、米軍人の綱紀粛正策を厳しく打ち出し、実効性ある具体的な再発防止策を示すこと

一、米軍基地の一層の整理縮小を図るとともに、海兵隊を含む米軍兵力の削減を図ること

自民党県連と仲井真弘多知事は、沖縄県民の代表としての自覚持つべきだあり、特に自民党県連は教科書問題にも消極的で、本当に沖縄県民を代表する「沖縄自民党」なのか、今の自民党沖縄県連の行動は沖縄県民を食い物にしている「売国者集団」の手先でしかないのが本当であろう。
これ以上「自民党沖縄県連」をのさばらせば、沖縄県は滅びてしまいます。
沖縄県民の皆様、良く考えて見ましょう。

基地外居住米兵、沖縄に1万人余=防衛省が初公表
 在沖縄米海兵隊員による女子中学生暴行事件を受けた再発防止策の一環として、在日米軍関係者の市町村別の居住者数を初めて公表した。それによると、沖縄県に居住する軍人とその家族らは計4万5403人。このうち1万319人が、事件を起こした米兵と同様、基地の外に住んでいることが分かった。

基地外に住む米兵の家賃光熱費など総て日本政府が負担しており、日本政府も「共犯」である。

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税金を食い物にする官の不祥事は後を絶ちません,官の彼らはそれでも、給与の減額など全くなし、社保庁厚生省防衛省国交省農水省特殊法人等多くの犯罪官庁、不祥事等是金を盗み使っても処罰や給与賞与に反映されない盗人官僚たち、国民は貧困の中で我慢して生活している状況下、防衛相は米軍住宅1,1295戸を思いやり予算5459億円で整備している。
 日本政府が1979年度から2007年度にかけて整備した米軍基地内の米軍人家族住宅が、現在建設中のものも含め、全国で1,1295戸に上り、在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)約5459億円が投じられている。
 米軍住宅の整備をめぐって日本政府が1975年度から2006年度にかけて建設した米軍人家族住宅が6108戸に上っており、img5790.gif

約半分が沖縄県内に集中している。
民間の高級マンション並み以上の整備が進められている。
そのほかアメリカ政府はアメリカが負担すべき分担金の支払いにも応じていない。
 米軍機による爆音訴訟で、嘉手納、厚木、横田などすでに確定した8件の訴訟の賠償金の合計が122億円に上るが、米国が分担金支払いに応じていないことも明らかに成っている。
賠償金は日本政府が肩代わりして原告住民らに支払っている。
 分担金をめぐる日米協議について、「政府としては米国に賠償金の分担を要請しているが、両国政府の立場が異なっていることから妥結をみていない。
日本政府は米国が負担する金額について現時点で答えるのは困難と説明し、金額を明かさない。
何故金額を伏せるのか、理由は只一つ、アメリカ政府へ強く出れないのだ。
ついては、アメリカ政府が分担金支払いに応じ無い場合は、国民の税金がここでも「無駄使い」されるのである。
国民の奉仕者?である筈の公務員は今や。国賊泥棒集団と変わり、アメリカの為には国民の税金をも盗み取り、アメリカの為に使う。
盗人集団を日本国から排除しない限り、国民の「血」は吸血され続けられてしまう。

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Feb
19
Filed Under (抗議) by tom1944 on 19-02-2008

コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)とは、1970年12月20日未明に琉球政府統治下のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で交通事故を契機に発生した車両焼き討ち事件である。当時の沖縄は米国民政府によるアメリカ合衆国の施政権下にあり、米軍人や軍属などが琉球人に対して行なった犯罪や事故に対して下される処罰が軽微であるとして、群衆の間に不満があったことがその背景にあるとされている。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。

コザ市は戦前は越来(ごえく)村という人口7,000人ほどの農村にすぎなかったが、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が同村字胡屋に野戦病院・物資集積所等を建設した。その後難民収容所を開設し「キャンプ・コザ」と称し、戦後、米軍人相手の飲食街を中心として市街地が形成され、1956年に市制を施行してコザ市となった。当時、ベトナム戦争のさなかで戦場を行き来していた米軍人たちの消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存していたが、暴動の発生した1970年前後には年間約1,000件の外国人犯罪、年間約3,000件の交通事故があり、犯罪の中には殺人・強盗などの凶悪犯罪、交通事故の中には死亡事故も含まれていた。しかし、米軍人・軍属による事件は被害者が琉球人であってもMPによって処理され、非公開の軍法会議において陪審制による評決が行なわれており、無罪や軽罰になる場合が多かったため、琉球の人々の間には不満が鬱積していた。

交通事故に関して言えば、1963年2月28日に那覇市の中学生が横断歩道を横断中に赤信号を無視した米軍人の車にはねられる死亡事故があったが、加害者は軍事裁判において「夕日が信号機に当たって見えなかった」などと主張し、最終的に5月に無罪判決が言い渡された。これに対しては琉球全土を挙げた抗議運動が展開された。また、1969年9月18日に糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近でアメリカ軍軍曹が泥酔運転をして、歩道を歩いていた金城トヨさんを死亡させる事故を起こした。それに対し地元の青年たちはMPへの事故車引き渡しを拒否、地元政治組織とともに事故対策協議会を発足させ、警察を通じてアメリカ軍に対し司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していたが、事件直前の1970年12月7日に軍事裁判は軍曹を「証拠不十分」により無罪とした。これらの事件が、人々の間に米軍人による事故の処理に不満を抱かせていた。

こうした感情が高まっていた1970年12月20日午前1時過ぎ、コザの中心街にある胡屋十字路から南に500メートルほどの地点で、軍雇用員の琉球人男性がアメリカ軍教務兵の運転する乗用車にはねられる事故が発生した。事故自体は軽微なものであったが、MPによる事故処理に不信感を持つ群衆が事故現場を取り囲み、MPによる不満を口々に叫ぶなど周囲は騒然となった。MPは現場での取り調べをあきらめ、近くにあったコザ警察署(現沖縄警察署)に加害者を連れて行こうとした。これが群衆には加害者を隠匿するかのような行動に映り、MPと加害者を移動させまいと群衆との間でもみ合いになった。加えて、近くでもう一件の交通事故が発生し、周囲の混乱がさらに大きくなったところでMPが群衆に対して威嚇射撃を行ない、これを契機に群衆がMPと加害者に襲いかかった。群衆はさらに、当時色によって区別されていた米軍人・軍属用ナンバーの車両に次々と放火した。

事件の発生に対応して、琉球警察やMPが暴動の沈静化を図ったが、午前2時半になると群衆は5,000人を超え、交番などにも投石を行ない、胡屋十字路から数百メートルのところにある嘉手納基地第2ゲートから基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。アメリカ軍では催涙ガスを使用してそれ以上の基地内への侵入を抑えた。

琉球政府も行政主席(本土の県知事に相当)が東京へ出張していたため、ナンバー2の行政副主席が現地に赴いて事態の収拾を図った。そのため夜明け前に群集が家路についたため暴動は自然消滅した。結果、アメリカ軍人の車両70台以上が炎上し、警官5人・琉球人十数人・アメリカ兵十数人が負傷したが、民家からの略奪行為は発生しておらず、アメリカ軍のみを標的にした暴動であった。警察は騒乱罪を適用し、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の市民10人を逮捕したが、いずれも証拠不十分で起訴されなかった。

事件に対し、当時の日本国首相であった佐藤栄作は、このような暴力行為はアメリカ合衆国政府との沖縄返還交渉に悪影響を与えると「警告」はしたが、沖縄住民の不満を理解することは無かった。

沖縄の歴史早分かり

第二次世界大戦末期の1945年3月末から、アメリカ軍は沖縄諸島の各地に上陸を開始した。アメリカ軍は4月1日に沖縄本島に上陸し、そこの防衛にあたっていた日本軍と地上戦を繰り広げた(沖縄戦)。アメリカ軍は上陸時に、占領地の軍政機関として琉球列島米国軍政府を設立した。

6月に入ると日本軍は組織的抵抗が不可能となり、沖縄本島と幾つかの島嶼はアメリカ軍によって占領された。日本が降伏を表明した8月15日に沖縄の統治機関としてアメリカ軍と住民の協同組織『沖縄諮詢会』が設置された。1946年(昭和21)2月には、米軍が占領しつつも日本の主権が認められていた奄美群島も、鹿児島県から切断されて沖縄の軍政当局下に置かれた。

アメリカは当初、沖縄(琉球)は日本の帝国主義に支配された異民族であると認識しており、朝鮮半島と同じく国際連合による信託統治期間を設けた上で、日本から分離独立させることを計画していた。軍政もそのための準備段階として捉えられていたのであるが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領期間中、ソビエト連邦を中心とした共産主義国との冷戦が意識されるようになり、琉球を信託統治にした場合、軍用地を自由に接収できなくなるほか、国連へ統治の実態の報告を毎年義務付けられているなど、ソ連と対抗し、沖縄を共産主義の防波堤として利用するには不都合であった。そこで、独立を前提とした信託統治計画を取り下げ、日本の潜在的な主権を認めつつ、軍による統治の形態をとることとした。そして、従来の軍政機関である琉球列島米国軍政府を琉球列島米国民政府に改組した。

アメリカ軍は日本軍の旧基地を獲得していたが、さらに演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に住民の土地を強制的に接収していった。これらの様子は「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例えられ、アメリカ軍の強権の代名詞となった。

1952年(昭和27年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)において、沖縄諸島の潜在的な日本の主権は確認されたが、引き続きアメリカ軍政下に置かれることとなった。また、統治機関である沖縄諮詢会は、『沖縄中央政府』『沖縄民政府』と名称を変えてきたが、1952年に『琉球政府』となった。

なお、与論島以北の奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本に返還された。このとき、米軍は「日本へのクリスマスプレゼント」だと冗談交じりに自画自賛していたという。しかし、奄美から沖縄本島へ労働に来ていた人々は「日本人」と言うこととなり、パスポートの所持の必要、公務員からの追放が行われるなど、いくつかの副作用がもたらされた。

1957年(昭和32年)からアメリカ本国の全権を委任された琉球列島高等弁務官による統治が行われるようになった。

沖縄戦の影響で経済基盤が破壊された沖縄では、通貨として日本円のほか、アメリカ軍の軍票であるB円が用いられた。1948年(昭和23年)から1958年(昭和33年)まではB円が唯一の通貨であったが、1958年以降はアメリカドルが使われた。

日本本土との往来は、パスポートが必要となるなど制限が行われた。しかし日本本土との経済圏が分離されたことで、地元の企業が多数設立されることになった。(戦前は他府県人の企業が沖縄県経済を牛耳っていた。)

また、アメリカ軍の基地が多数設置されたことにより、基地における雇用が確保された面もある。

当時の主要産業は製糖業とパイナップル産業で、観光業は現在ほど盛んではなかった。当時の観光は戦跡を巡る慰霊目的の観光が多く、現在のようなリゾート目的の観光は余り盛んではなかった。

車輌は本土とは異なり右側通行だった。復帰後の1978年7月30日に左側通行に変更された。
道路は、軍道222.6km、政府道901.7km、市町村道3057.8km(いずれも1970年時点)で構成されていた。

730(ナナ・サン・マル)とは、沖縄県の用語で、沖縄の日本への返還後6年目に自動車の右側通行が左側通行に変更されたことを指す。

1978年7月30日に県内全域で一斉に実施されたためにこの名がある。

戦前の沖縄は日本国内の他地域と同じく自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了直後の1945年6月24日にアメリカにより右側通行に変更されていた。

日本本土とは逆の右側通行であるという状況は、1972年の日本への復帰後も6年間続いたが、ジュネーブ交通条約(または1949年交通条約、1949年制定)の「一国一交通制度」による条約遵守の立場から、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に変更されることになった。沖縄の日本本土復帰を象徴的に示す一大プロジェクトであった。
1978年7月29日22時より沖縄県全域で自動車の通行が禁止され、8時間後の翌日午前6時をもって自動車は左側通行となった。

道路標識・道路標示等の変更は、この8時間の自動車通行禁止時間に行われた。わずか8時間の自動車通行禁止の間に一斉に切り替えが行われているが、これが可能だったのは、当時沖縄には路面電車が無かったことが大きい(路面電車を自動車に合わせ右側通行から左側通行にするには、全ての車両と駅の構造を変更しなければならない)。
幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識・信号を設置した上で、「車は左」などと書かれた覆いをしておき、自動車の通行を止めた8時間の間に覆いを外して右側通行用の物と置き換えた。なお、交通整理など沖縄県警だけでは対処しきれないことから警視庁をはじめ全国各県の警察官が応援に駆けつけた。
沖縄県から県民に対し「730キャンペーン」を行い、各メディアで周知させた。この時のCMには具志堅用高が出演していた。
1970年代後半から1980年代にかけ、右ハンドル車のことを730車両(730カー)と呼び、同様に左ハンドル車のことを729車両(729カー)と呼んだが、いずれも現代では死語になっている。現在でも極わずかだか復帰前の左ハンドル仕様車が走っている。
変更後しばらくは、左側通行に不慣れなドライバーによる交通事故(ほとんどは他の車との接触事故)が続発した。
路線バスは乗降口を車両の右側から左側に変更しなければならないため、当時の乗り合いバス事業者は右ハンドル車のバスを1000台以上新車にて導入(国や沖縄県からの補助金も交付)された。これらの車両を特に730車両(730バス)と呼ぶことがある。
1976年に行われた沖縄国際海洋博覧会の際には、多くの観光バスが新車で導入された(当時は左ハンドル)が、これらの車両は経年も若かった為、一部は右ハンドルへと改造して使用された。現在は全て廃車となっている。また、改造されずに中国など右側通行の国に売却された例もある。
730バスを導入した、琉球バス(現、琉球バス交通)、沖縄バス、那覇交通(現、那覇バス)、東陽バスのうち現在は、沖縄バス、東陽バスの車両のみが残っている。沖縄バスは購入時とは塗装が変更されており、現在、路線に使用されることはほとんどなく動態保存として残されている。東陽バスは現在でも現役で運用されているが、廃車が進んでいる。琉球バスの車両は、琉球バス交通に引き継がれた後、2007年5月頃に車検切れという理由にて廃車、那覇交通から引き継がれた那覇バスでは2005年1月頃に廃車となった。
変更実施後は各地で事故が発生したが、一般の乗用車による事故のほとんどが接触事故だったに比べ、バスによる事故にはバス同士の正面衝突などという事故も多数起こった。これは、ほぼ毎日運転を行うバス運転手が左ハンドルに完全に慣れてしまっていた為、また、右ハンドルでの練習を行う期間が短かったことなどが挙げられる。なお、同様にタクシーでの大事故も多発した。

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